吐露始め 2006/04/09 日曜日

「と」 同気相求む(どうき・あいもとむ) その3

やがて打ち上げが終わり、しらじらと夜は明けて薄霧の中解散。どんなに寂しくったって、どうにも眠いし、皆酒臭い。ロマンティックに終わることは出来ぬ、これも常である。
私は未だ酔っぱらって江頭のように舞っていた(と成清に評された)が、ふと別れ際、再び二人の様子を観察してみた。
どこか清々しく凛とした顔で、感傷を引きずることなく潔い別れで去っていったのはいじりんの方である。先ほどの丸かった背中も今はシャンと伸び、それでは失礼いたしますと高級ホテルマンの様な一礼で帰っていく。
逆に、「ねぇもう帰るの?この後どうするう?」と子犬のような目でソワソワとみんなの様子を伺っていたのはしょうちゃんだ。さみしいよう、まだまだ楽しみたいよう、とその姿が語っている。私は江頭のように舞いながらしょうちゃんのもとへ走り、気が済むまで彼と遊ぶことにした。
まだ楽しんでいたかった私には、子犬な彼の空気が合うのだ。

吹き抜ける風、そよぐ風。激しい雨に、カンカンの晴れ。喧噪と静寂。厳しさと優しさ。空と海。
対にあるものが絶妙なバランスでそこにある。対でありながら、一体である。
二人を見てるとそんなことを思う。
そんな二人のバランスに、私は贅沢な心地よさを感じながら飛び込んでいく。

吐露終わり
吐露始め

「と」 同気相求む(どうき・あいもとむ) その2

さてそのプラネタリウム公演、全ステージが終了した後の舞台裏で、私たち出演者はいつになく感傷的であった。臆面もなくめそめそしている輩もいて(自分か?)、それはスターホールという空間(そして素敵なスタッフの方々!)がもたらしたものなのかもしれないし、宇宙の大きさと私たちの小ささの中に存在する計り知れないさみしさのようなものを感じたからかも知れないが、ともかくその共有してきた時間を確かめ合うようにいつまでも互いに手を握り合ったりしていた。
しかしそんな胸の熱くなる想いをしても、次に待ち受けているのは打ち上げという名の酒祭り。
先ほど宇宙を感じていたかと思えば、次の瞬間は和民にいるのが現実だ。結局ゲハゲハと騒いで感傷も笑い飛ばしてしまうのが常である。そんななかで、あのピアノ弾きと歌い子はどないに過ごしているのかしらと、皆に大入り袋(お客さんがたくさん来た時に渡すおみやげのようなもの)を渡すさいチラリ観察してみることにした。
女子たちに囲まれ、己もガーリィな高い声でキャハハとはしゃいでいるのはしょうたろうさん。女子をはべらしているというよか、すっかり同化している彼の周囲はお花が咲いているような華やかさ。そこに涙はなく、笑顔が溢れている。
ところがはす向かいの井尻氏を見やれば、空気は一転、伏し目がちでジッと黙り座っている。あの姿勢の良い背中もこの時はほんの前屈みに丸まり、その様子はまるで優しい目をした必勝ダルマ。時折口をキュッとへの字にしたままおしぼりで目元を拭いていたりする。
大入りを渡した後、私は酔っぱらってなまこのようになりながらいじりんのもとへ這って行き、語り合った。
まだ感傷から抜け出したくなかった私には、ダルマな彼の空気が合うのだ。

吐露終わり
吐露始め

「と」 同気相求む(どうき・あいもとむ) その1

そう言えば、「満天の夜/ねこはしる」のことを全然書いていなかった。
初のプラネタリウム公演、二年ぶりのアルケミストとの共演ということで余程浮き足だった日々だったのだろう。季節はとっくに春だが、今更ながらにあの冬へ立ち返り、我が友とおこがましくも呼ばせていただくアルケミストについて語りたい。

大人になるほど出会いも増えるが、本当に気の合う友人を見つけるのは年を取るほどに難しくなるものなのかもしれない。ましてや四六時中演劇と向き合っていると、別の世界で友人を見つけることは大変困難なことである(特に私のようなインドアひきこもり人間の場合は)。
そんななか、おこがましながらピピと通じ合ったのではないか、おこがましながら(しつこいね。おこが「増し」すぎるので今後は割愛しますわ)世界のせっまい私にとって演劇以外でようやくできた友人と思うのが、アルケミストの二人である。
KAKUTAに来てくれるお客様の中でもアルケミストファンは大勢いて、もはや紹介するまでもないと思うが、二人はボーカル(こんやしょうたろう)とピアノ(井尻慶太)の二人ユニット。
繊細で力強い詩を透き通る声で歌うボーカル、柔らかく深く聡明なピアノ、と彼らを表現する枕詞は多々あれど、密かにだが私の中では「空のしょうたろう」、「水の井尻」と評するのが一番しっくり来る感じがしている。
「空よーっどこまでも続いてけーっ天までとどけーっ高く高くへ飛んでゆけーっ」
としょうたろうの歌声は言っているように感じる。
「川のように穏やかに、時に激しく流れるのだ、海のように深く、どこまでも広い地平線を知るのだ」
と井尻のピアノは弾いているように聞こえる。
ついでに誰か私のことを「土のバラ」とでも言ってくれないだろうか。

「どすこい、どすこい」

何だか力士の土まみれのお尻などを連想してしまうファンキー(土着的という意味での)な表現ではあるが、そうして空と水と土が揃えば宇宙が見える気がしない?などというところで、プラネタリウム公演はやはり必然であったと勝手にこじつけているわけです。

吐露終わり
吐露始め 2006/03/16 木曜日

「て」 徹頭徹尾(てっとう・てつび)その5

相川氏「いや見ませんって、役者を見ますって」
わたし「相川さんを見ますって!」
相川氏「いや見ませんよ、僕なんか」
相川さん、謙遜してる場合じゃないよ。
しばらく、窓の中と外で「見ない!」「見ます!」のやりとりが続き、私は口論を続けながらもおもしろな事態に今にも吹き出しそうな思いで心が震えっぱなしだった。
しまいには、「じゃあ僕が隠れれば良いんですね」と相川氏が言い、カメラのファインダー以外を布で隠して櫓の下からレンズだけが覗いているという形でも試してみたのだが、 “こ…これじゃまるで盗撮だよ!” という余計怪しい状態になって、その上相川氏がカメラをパンするごとにコッソリ隠れているはずのレンズが布を引き連れてヌー、ヌーと舞台の下で動くので、私はついに本来の趣旨も忘れるほど笑ってしまったのだった。
結局「そうですか…僕が見えますか…」と言ったちょっぴりしょんぼりした感じで相川氏は別のポジションに移り、本番は滞りなく撮影を行っていただいたのだが、私は本番中も「もしあそこに相川さんがいたら…」と、一人相川氏の野鳥の会な様を想像しては笑っていた。
そんな相川氏だから、私はついつい彼をプロカメラマンと認知する以上に「おもしろ人」としてインプットしてしまうのだが、出来上がってくる写真を見ると、その「おもしろ人」な彼とのギャップに、否、そんな彼だからこそ撮れるのであろう素晴らしい写真や映像の数々に、いつもハッとさせられる。
彼独自のアクティブさと、そのこだわりから生まれるショットの数々は、彼を真のおもしろ人であると証明すると同時に、彼にしか撮れない躍動感を生み出しているのであった。
おもしろ人・相川博昭。彼のおもしろを知るのは自分だけじゃないかとつい自惚れそうになるのだが、なんのなんの。ミクシィには彼のコミュニティまであり、そこには100人以上のメンバーが登録していて、ファンによる相川秘蔵写真などもアップされているという、彼はまっこと有名な「みんなのおもしろ人」なのである。
もしもミクシィに参加している人がいたら、どうぞコミュニティへの参加をどうぞ。
相川さん、これからもどうぞ私におもしろを提供してくださいね。

吐露終わり
吐露始め

「て」 徹頭徹尾(てっとう・てつび) その4

そんなアクティブ・フォトグラファー相川氏と私は、時に口論になることもある。
先月上演した『満天の夜』でのこと。真ん中にどデカイ投影機が位置する独特な空間のプラネタリウム公演だけあって、かの相川氏も「これは一体、どこで(ビデオを)撮れって言うんですか…」とため息を漏らしていた。
しかしそこで大人しく引き下がる彼ではない。舞台は円形を囲むように三つの高台が設置されており、その高台の下は櫓のように空洞になっていた(そこに布を貼るかたちになっていた)のだが、その櫓の下へ潜り撮影するというのが彼の案であった。どういう状況になるのか様子がつかめぬまま私は別の準備に取り掛かり、しばらくはおのおので公演に向け動いていたが、本番が近づき、いざゲネプロへと言うあたりでどこからか「桑原さん」と相川氏の呼ぶ声がする。
見ると、私の背後にあった高台舞台は、布で隠されるはずのけこみ(舞台の側面)部分が小窓のようにポッカリと開かれてあり、そこからニュウとビデオカメラ&相川氏の顔が覗いていた。まるで野生の珍鳥を撮らんとしているバードウォッチャーの様な風情である。
「まあ、こんな感じになるんですけどね」と相川氏。
「え…あの、そんな感じですか」と私。舞台である高台の下にブラックホールのようにと開いた黒い窓はさながらのぞき見額縁ショーだ。
私「あの、布で隠したりはしないんですか…?」
相川氏「ええ、それだと見えなくなっちゃうんで」
もともとこの櫓の中で照明さんがオペをする予定になっており、片方の窓は小さく開いていたので少々の覚悟はしていた。が、しかしこの個性派な相川氏が窓から覗いているのは、あまりにも、あまりにもインパクトがありすぎる!
「あの、もの凄い気になるんですけど…」私が今にも溢れ出そうなおかしみをこらえながら言うと、相川氏は窓の向こうから野鳥の会状態でひょうひょうと返した。
「いやでもね、お客さんは上を見るわけでしょ?だったらここにいる私のことは、多分気づかないでしょう」
「いや、気になります!むしろ相川さんのことばかり見ます、絶対!!」私は必死で答えた。私がお客さんならば、役者以上にあの小窓に潜む丸メガネの方に見入ってしまうに違いない。ご自身のたぐいまれなる存在感を彼は自覚してないのだ。

吐露終わり
吐露始め

「て」 徹頭徹尾(てっとう・てつび) その3

そこで語られるのは主にセックス話だ。「そんなことないですよ!!」とご本人に怒られそうだが、敢えて「いや、そうだね!」と語調を強くしたいほどに、彼のセックストークはつきることがない。最初こそ違う話をしていたつもりが気がつくと「セックスとは…」という話題にすり替わっており、それを私は「アイカワ・マジック」と呼ばせて頂くが、その魔法にかかれば例え女の子でもつい笑い転げながら話題に参加してしまい、今でこそ美しい素敵な奥さんがいる彼だけれど、かつてはそうしたセックストークで会場を沸かせつつ、話の合間にするりと女の子に“口説きをかます”のも見事なテクニックであった。
が、私がおもしろ人と太鼓判を押したくなるのはなにもセックストークに限ったことではない。
おもしろ人は先述した独自のファッション同様、その人なりとなりを現す何かへ向けての強いこだわりをもっているもの。
彼の場合は写真で、それはもうプロなのだから当たり前なのだけど、そのこだわり、そのプロ意識には目の当たりにするにつけ毎度シャッポを脱ぐ(by雪山素子)気迫がある。
例えば、舞台記録を撮るときの彼が、なんかすごい。
KAKUTAではチラシの宣伝写真だけでなく、公演の様子を写真とビデオカメラに記録するのもお願いしている。写真は本番中に撮るわけにいかないので大抵がゲネプロの際に撮っていただいており、その際に彼は舞台のあちこちに移動して撮ってくれるのだが、その動きたるや舞台上にいる役者たち以上のアクティブさなのだ。
あらゆる角度から、時にはしゃがみ、時には駆け寄り、そして時には舞台上に乗り込んで、桟敷の座布団の上で滑ったりしながら写真を撮る。「走る・滑る・見事に・転ぶ☆」彼の背後にはキン肉マンのテーマ曲が流れているようだ。
役者の動線ギリギリに沿って動きながら撮影する参加型カメラマン・相川氏なので、役者たちはたとえ視界の隅で相川さんが転んでいようが接して集中力を切らすまい、と必死で芝居を続けている。ある意味、役者の集中力を高める良い作用となっているのかもしれない。しかし客席で見ている私は、相川さんが次にどこで走るか、どこでこけるかに気を取られ、うっかり芝居の方を見逃したりしているので、集中を切らされていると言えないこともないだろう。

吐露終わり
吐露始め

「て」 徹頭徹尾(てっとう・てつび) その2

横山にまつわる数々のこと…好きな子に手製のオルゴールをプレゼントし(よせばいいのに)、告白する際に箱を開けて曲を聴かせ、相手に「やめてー」と耳をふさがれた事件や、「異物感がある」と言いたいのを「汚物感がある」などと言い間違えたりする事、『満天の夜』で使用したまっピンクの(豚)帽子をかむり、『ねこはしる』で使用した大量のビニール傘を鞄につっこんで歩くそのアンバランスな様が迂闊にも新宿中央公園の住人のように見えてしまう悲劇…そうしたことは、決して彼の意図したところではない。
世の中のおもしろな側面を人並みはずれた探求心でもって自ずと覗きに行く人が「おもしろ人」ならば、本人は至ってまじめなのにうっかりおもしろに転化してしまうのが「おもしろさん」だと思うのである。
おもしろさんと一緒にいるのもいいものだが、その無自覚さに時にイラッと来るのもまた事実だ。

さて前置きが長くなったが、私にとって身近な「おもしろ人」と言えば真っ先に思いつくのが、当劇団の宣伝写真を手掛ける写真家・相川氏だ。
仕事は一流、デキる男と呼んで過言ではない彼なのだが、相川氏の中にある「おもしろ人」的要素には、うっかり本業の仕事っぷりを忘れさせる力がある。
夏冬問わないロングコートに70‘sなロン毛の三つ編み&バンダナ、豊富な口ひげと江戸時代の商人のようなトレードマークの丸メガネ…その遺憾なく個性を発揮している風貌には、おもしろ人としての強固なこだわりがある。また、「ヒヒヒ」とカタカナで書けそうな笑い声と言い、鼻の穴に割り箸をつっこむという「どんだけ練習したんだあんた」とつっこみたくなるほどの見事な宴会芸といい、『ゲゲゲの鬼太郎』で言えば間違いなくねずみ男のポジショニングな彼なのだが、同時にディズニーで言うところのグーフィー的おとぼけ感と親しみやすさを兼ねているのも相川氏の魅力だ。
「おもしろ人」というのはえてして飲み屋で神になるものだと思うのだが、彼の場合にも例に漏れず、打ち上げの席などではいつも彼が周囲を飲み込んで離さない「相川テーブル」が出来上がっている。

吐露終わり
吐露始め

「て」 徹頭徹尾(てっとう・てつび)その1

こうやってエッセイを書かせてもらっていると、不定期という言葉をいいことについさぼりがちになってしまったりもするのだが、普段の「おもしろ事」には常に目を光らせていなければならないと思う。
しかし時には「世の中むかつくことばかりだぜ」などというクサクサした気持ちになり、本来ならば笑いこみ上げるすっとこどっこいな日常も、色褪せ、やさぐれた目線で見てしまうことがある。
そんな時どうすればいいか、最近になって気がついた。周りにおもしろ事が見あたらないときは、それらを思い起こさせてくれる「おもしろ人」を友人に持ち、彼らのことを思い出せばいい。
ここでいう「おもしろ人」とは、芸能人とか文化人とかいうカテゴリ分けのひとつであって、芸人さんともちょっと違う。みうらじゅん氏やいとうせいこう氏、安西肇氏、泉麻人氏…挙げればキリがないほどに世の中には「みんなのおもしろ人」と呼ばれる方々(クリエイターと呼ばず敢えてここでは敬意を表しそう呼ばせて頂く)がいるが、出来ることなら自分の身近にそんな「おもしろ人」がいると、毎日がより楽しく過ごせるというものである。
こんな風に言うと「それなら他人に頼らず自分こそがそれになろうじゃないか」と人は欲深く思ってしまうもので、ことに私のような小劇場の役者なぞは己が「おもしろ人」でなくてはならないと半ば強迫観念にとらわれるかのごとく考え込んだりしてしまうものだが、それとこれとは別の話。ここは“役者にとって必要なユーモアセンス”などどいった小難しげな観点からはずれて、私も私もと背伸びせず純に身近なおもしろ人と親交を深めていきたいものだ。
また、「そんなこといったら面白い人なんて周りにたくさんいるよ」というお声も頂戴するが(してないけど)、ここで注意したいのは「おもしろ人」と「おもしろさん」の違いである。
例えば私の例で言うと、KAKUTAの横山さんなどは確かにしょっちゅう突発的な笑いを提供してくれる人ではあるが、彼の場合、本人も期せずして笑いを誘ってしまう「おもしろさん」である。

吐露終わり
吐露始め 2006/02/14 火曜日

「ち」 知行合一(ちこうごういつ)その5

が、ようやく少し落ち着いた頃、先生がカメラで見ながら「アー。」と声を漏らしたので大変。今度は途端に胃ポリープが心配になる。
先生、「アー。」って何?「アー」の意味は?!
聞きたくてしょうがないけど、絶対喋るなと言われているので黙ってガフォとかやっているしかない。確か胃ポリープがあった場合には、その場でちょんと切ってしまうとか何とか…その場合胃の麻酔はどうするのか。ちょんと切ったら痛いだろう普通は。そんなことを思い巡らせ、焦燥に駆られる。と、しばしの間があって…、

「なんにもないね。胃ポリープもないし、荒れてもいませんよ。」

先生があっさり言った。まるでそれは、「ストレスとか胃に影響しないでしょ君は」とでも言われたようにさっくりと。
胃が痛いの…という“やだけど一度言ってみたい台詞”はまたしても遠のいたし、「アー、結局夜中にビスケットを食べたがために胃カメラまで飲む羽目になったんだ」と言うことを自覚したが、それでもとても嬉しかった。横たわったまま看護婦さんに手をさしのべると、ギュッと握りかえしてくれた。
それでちょっと、出産したときの気分(いや、全然違うだろうけど)を味わったりした。

体が健康なのは本当にありがたいことだ。ニュルニュルと胃カメラが体から引き出されていくのを感じながらしみじみ思った。
しかし、ここで学んだ一番大きなことは。
「検査の前日は食べちゃダメ!!」

吐露終わり
吐露始め

「ち」 知行合一(ちこうごういつ)その4

さあ、そんな諸々あっていよいよ胃カメラタイムがやってきた。あのゼリー麻酔のおかげで既に疲労困憊ではあったが、やっぱりカメラが目の前に来ると身がすくむ。看護婦さんと先生が、続けざまに二度「胃カメラを飲む際の諸注意」を言ってくるのがなお怖く、「唾は飲み込まない」「絶対喋らない」「息は鼻から吸って口で吐くこと」と言った注意事項にアワアワと頷いてベッドに横たわる。
眠くなる薬を注射しますと言うので少し安心したのもつかの間「でもあんま眠くならないかも」胃カメラ検査を担当する先生に軽く言われ、いよいよとりすがるものがなくなってしまった。
口にプラスチックの挿入口をはめられ、じゃあいきますよとついに胃カメラが入ってきた。

ギャア!!!!!!

く、苦しい。全然苦しいじゃないか、母よ!!
うちの母はうつらうつら眠っている間に入ってた、などと言ってたけど、全然意識があるじゃないか。幼き頃CMを見て恐怖におののいたあの映画「帝都大戦」の、口からなんかの虫がニョゴニョゴしてる映像をしっかり想像してしまう程に、意識がハッキリじゃないか。(バカ、そんなこと考えちゃダメだ!)

ガフォ!!

えづいて私は恐ろしい声を漏らした。あのね、女の子だってえづいたらガフォって言うよ。ウ、ウン…なんて言わないよ。ガフォ!これだよ。私だからじゃなくて、どんな可愛い子だってガフォって言うね。ざまみろ。誰に言ってるんだか。
とは言え、お医者さんの名誉のためにも今後胃カメラを飲むかも知れない人のためにも言っておくなら、きっと昔に比べたらこれでもだいぶん楽な方なのだとは思う。看護婦さんに言われるとおり、余計なことを考えずに呼吸に集中するとそこまで騒ぐほどじゃない。時折ガフォとなってしまうが、テンパらないようにしようという自分の心がけ次第のようにも思う。看護婦さんがとても優しくて、「大丈夫、うまくできてますよ」と何度も言ってくれるので、どんなことでもおだてられれば嬉しくなる私は、その声に乗せられて何とか順調にすますことが出来た。

吐露終わり
吐露始め

「ち」 知行合一(ちこうごういつ)その3

その日の朝、原扶貴子の応援メールに励まされつつも、同時に原が以前胃カメラを飲んでえづきまくったと言う恐怖体験談を思い出してナーバスになりながら病院に向かう。
最近では胃カメラを飲む前に痛みを和らげるため、まずは液状の麻酔薬を飲み、安定剤の注射をして、更には喉の奥にゼリー状の局部麻酔を流し込んで5分間待ち、仕上げにスプレー式の麻酔を口内にふりかけるという徹底した処置を行ってくれるのだが、そのゼリー状の麻酔薬というのがこれまたおもっくそ苦くてまずい。
「出来るだけ飲み込まないようにして5分間そのまま待ってください」と言われるのだけど、それだけで既に一苦労である。まんべんなく喉に浸した方が良いのだろうなと思って頭をちょっと揺らしゼリーを口の中で動かしてみれば、そのたびに苦みが喉の奥にほとばしり、起きあがってすぐさま吐き出したい衝動に駆られた。
しかも5分待った後ようやく吐けると思ったら「麻酔が喉の奥まで効くようになるんで、出来ればソレを飲んでください」と言うのだ。これがはあ大変だった。飲もうと思っても飲み込めない。舌先には触れていないから実際の味はわからないはずなのに、体が拒否するのだ。その感覚は何というか…こんな例えを出して良いのかどうか悩むところではあるが、男性の体から排出されるアレに近いのではないかと思う。(実際のところはわからないけど、などとカマトトぶって言っておきます)

吐露終わり
吐露始め

「ち」 知行合一(ちこうごういつ)その2

男女共通だとなにがあるだろうか?例えば「頭痛持ち」と言うと、ちょっとインテリチックだったりナイーブだったりという印象を受けたりはしまいか。あるいは、思春期の折りにいかにもモテそうな奴が「腰が痛くてサー」などと言おうものなら、それは嫌味か?!と噛み付きたくなった男子諸君もいるのではないか。あ、これは主題とずれてるか?
ともあれ、やだけどちょっと憧れの症状のひとつであった胃の痛み。だからといって胃ポリープなんかにはまるでなりたくない。大体、胃が痛くなることなんて滅多にない私にとって、そんな診断結果は寝耳に水という感じだった。
しかしこの診断結果に、まったく心当たりがないわけでもなかった。そう言えば胃がむかついたような…ということではない。実は、人間ドッグの前日19時以降は何も食べちゃいけないという一般常識を知らずに夜中までチョコチョコおやつをつまんでいたのだ。
「あなたご飯食べちゃダメって知ってるわよね?」と母から電話がかかってきたのはその日の深夜。今更遅いよと言いながら、実はその後も少しだけつまんだ。
そうして迎えた人間ドッグ。ゲフゲフしながらバリウムを飲んで胃の検査をした直後に、検査員の人にしっかり「夕べなにか食べました?」と聞かれてしまった。
そんなわけで、胃ポリープのように見えて実はビスケットという可能性大でありながら、ビスケットだと思いますと検査を流すわけにもいかず、知行合一、真に知るためには実行も伴わなければならぬよと、胃カメラを飲む羽目になってしまった。本当に胃ポリープがあったらどうしようかという心配もあったが、あの噂に聞く小型カメラの、オエッとなる体験をせねばならぬことがブルーだった。

吐露終わり
吐露始め

「ち」 知行合一(ちこうごういつ)その1

はじめて行った人間ドッグの結果診断書に「胃ポリープ」とあり、ブルーになった。
予想外の結果にガーンとなる。
私は本来、緊張やストレスが溜まっても胃ではなく腸に来るタイプ。緊張でキリキリ胃が痛む…ということはめったになく、大抵は胃を通り抜けギュルルと下っ腹が鳴ってしまう方だ。
「このところ人間関係に悩まされることが多くて胃が痛くなったわ」…とか言う会話はよく聞くものの、自分が体感しない方なので舞台の戯曲でも書いたことがないように思う。自分の感覚で言えば、「人間関係に悩まされてお腹が下った」というのが自然だが、それも何だか恥ずかしいから、結果的に「悩んでも体には影響なし」となってしまうことが多いのだ。
ストレスで胃が痛いと言っている人は繊細な感じがする。私のように腹が下ると言っている人は胃をストレスがボンヤリ通り越しているようながさつなイメージ。
故に、そう言うことを言う人を身近に見ると、ほんの少し憧れる部分があった。
実際になってみたらきっと嫌なはずだけど、女には女独特の視点で“憧れる体の症状”というのがいくつかあるように思う。
その代表は、胃下垂だ。「私って胃下垂で…」という人は大抵、細い。胃下垂というのが実際体にとって良いのか悪いのかイマイチわからないのだけど、女にとっては「胃下垂=太りにくい」と言うイメージが直結しているので、一度言ってみたい台詞だったりする。
次に、便秘。腹下りに比べ、うかつに便の出ない繊細さが漂い、外出先ではおトイレに行けない…というお嬢なイメージがあるからだ。
かつて学生時代の頃は「生理痛が重い」というのも憧れのひとつであったように思う。これは、「女だから、ゴメンナサイ…」と言う、何がゴメンナサイなんだかわからないがその痛みを知らぬモノにとって抗えない力があるように思えたからだ。生理痛を訴えて体育を休めたりした日にゃ、立派な免罪符を持っていることを自覚する。ある年下の友人に「泡吹いてエビのようにのたうって倒れたことがあります…」と聞いたときはさすがにそこまでは嫌だと思ったものだが、だから女は自分が生理が重いことを語りたがるし、私全然痛くないと言っている子に対し、勝手にずぼらな印象を抱いたりするのだ。

吐露終わり
吐露始め 2006/02/02 木曜日

大敵と見て恐れず小敵と見て侮らず(たいてきとみて・おそれず・しょうてきとみて・あなどらず)その3

今日は衣装合わせで、皆で山盛りになった衣装をとっかえひっかえ着替えては似合う似合わない横山はさえない(いじめか?)とやいのやいの盛り上がっていた。
いつだって衣装合わせはちょっと心が躍るもので、ちょっとその服でしばらくいたいなくらいに思ったりするのだが、そんな盛り上がりをよそに若狭が一人、マスクにダウンコートを羽織って震えている。頭はボッサボサ、顔が熱に浮かされてボンヤリしているので、どんな服を着てもキマらない。おかげで何度も着替えさせられる羽目になり、その度に頭がでかいだの何だのとゲラゲラみんなに笑われていたのだけど、今思うとインフルエンザの人相手に気の毒な話だ。そして普段なら若狭もヘラヘラと返してくるのが、さすがに今日は何を言われても先ほどまで寝てた子供のように鈍い反応だった。
他の人の衣装を合わせていても、すみっちょで若狭が「さむい〜〜〜さむいいいい」と小声で言っているのがこちらの耳に届いてくる。やかましい!とほったらかして(非情)衣装選びを続け、またしばらくして若狭の方を見てみると、悪化したのか「アウアウアウアウアフ…」とか言っている。
さすがにちょっと尋常じゃない寒がり方なので、大丈夫?と聞けば、若狭は今日に限って「ハイ、大丈夫です!」などと健気にも返してくる。客演していて一人稽古が遅れていることを思っての行動なのだろう。口に出さずにおれない男でもあるが、人一倍真面目な男でもあるのだ。
それで衣装選びが終わり稽古を再開したのだが、もはやその時には明らかに顔つきもやばいことになっていて、朗読しているのに(※朗読公演だからさ)舌が回らずろれろれで、ダメ出しを確認すれば、

若狭「えーと、頭がゴチンで…はい」

などと訳のわからぬ返答が帰ってくる。申し訳ないがちょっとだけ面白かった。
そうして稽古から帰ってくれば、39°9発熱中との知らせ。なんたるちーやのさんたるちーや。(古いか)
インフルエンザと聞いてとたんに震撼した私たちだが、その前に若狭の「ウー寒い寒い」の発言を侮るべからず。
ごめんな若狭、そしてこれからはお互いに寒い腹減った眠い痛い具合悪い、チョコチョコ言い過ぎないようにしよう。
嗚呼、どうかうつっていませんように…。

吐露終わり
吐露始め

大敵と見て恐れず小敵と見て侮らず(たいてきとみて・おそれず・しょうてきとみて・あなどらず)その2

若狭は普段から身体的苦痛を感じたときには真っ先に口に出さずにおれない奴とKAKUTA内では定評のある男だ。具合が悪い、お腹がすいた、眠い、寒い…本人無意識なのだろうが、言ってどうにかなるものでも、言ってどうにもならんことでもともかく言わずにおれない男。偉そうに言ってるが、実は私もそうだ(と言うことを最近友人に指摘されて知った)。なのでお互いに体調不良の際にはきっと、

若狭「あー寒い…」
バラ「寒くて何か具合も悪いよね」
若狭「お腹も減ってるし」
バラ「眠いよね」

と言った不毛な会話が繰り広げられるに違いないのだが、自分もそうだと思うと、それがいかに無意識に口を出てしまうのかと言うこともよく知っている。しかし同族に厳しい私なので、若狭のそう言う場面に遭遇するごとに「腹が減ってる?我慢しろい!」と歯をむいてきたのである。
更には自分の体調に不安を抱きやすいたちなのか、若狭はしょっちゅう「風邪っぽい」と言っているので、今回も「気のせいじゃ!ボケ!」くらいの乱暴な気持ちで見守っていた。

吐露終わり
吐露始め

大敵と見て恐れず小敵と見て侮らず(たいてきとみて・おそれず・しょうてきとみて・あなどらず)その1

ヒギャア!!

叫ぶのも無理ございやせん。今年もKAKUTAについに来てしまいました、タミフルの恐怖(よくわからんが)・大敵インフル菌。
一番来ちゃいけない時期に、恐れていたものが、嗚呼。
思えば昨年は「南国プールの熱い砂」のチラシ撮影時にカメラマン・相川さんも含め全員が(但し高山と横山以外。何か納得の除外者たち)風邪とインフルエンザに冒され、平均体温38度ななか水着&半袖で撮影する羽目になった。
吹きすさぶ二月の北風の中、ガチガチと歯をならし鼻水を垂らし恐ろしげな咳を吐き出しながら楽しい常夏をイメージするのは至難の業だ。風邪薬でハイテンションになっていたので気づかなかったが、皆ちょっとやばい顔をしていたように思う。
私はと言うとその後更に人に自慢したくなるほどの高熱が出て、起きあがれないわ関節がメリメリ痛むわ解熱剤で湿疹が出て体中ポッツポツになるわで、嗚呼、風邪って泣けるものなんだと思うようなしまつだった。
そんなこっぴどい目にあったというのにそれでも予防接種を怠ったのはなんでなのか。今更考えても遅い話ではあるが、今どうしても考えてしまうことである。
とは言え、今回はみんながなったというわけではない。と言うか、どうかうつっていませんように…と祈るような気持ちで今これを書いている。と言うのはまさしく今日、KAKUTAで今年初のインフルエンザ発病者が現れたからであった。
只今、目下インフル中なのは若狭勝也クン。つい先日客演を終えて戻ってきたばかりで、帰って早々の出来事である。さあやるぞと言う時期にこんなことになるとは全くもって気の毒だなと思うのだが、それでも今日は早退させてあげなかった。
あげなかったというと何とも傲慢な響きだけれど、そんなに具合が悪いとは思わなかったのだ。
いや、本当はわからなかったというよりか、見るからに具合が悪そうだったのだが「どうせ大したことないだろ」と軽んじてしまったのである。ひどい奴だと思われるだろうが、言い訳させて欲しい。

吐露終わり
吐露始め 2006/01/29 日曜日

「た」 大喝一声(たいかついっせい)その4

しかし結局のところいかにしたらああいうバカ騒ぎを効果的にやめさせることが出来るのかはわからないし、どうしたらああいうとき怒りもせず電車に乗り続けることが出来るのか、自分への課題を背負った気がする。
世の男性諸君にはこういう非常識な輩に対してもっと毅然とあってほしいものだと思うが、だからとてこういうことをしょっちゅう吐露部屋に書いている私も、その短気さがちょっと恥ずかしいのは事実だ。
それに実は、つい先日のちょっとした出来事以来、私はこういう己の短気さを戒めていたのだ。
それは、ある朝のバスの中だった。バスこそ電車以上にお互いの思いやりが大事な公共の場。電車では大勢が乗り降りする慌ただしさから多少振る舞いが粗雑になってしまうにしても、同じ町の人たちが利用しているバスくらいは穏やかに参りましょうよと思うのだが、そんな時も電車と同じくらい人を押しのけて行こうとする人がいる。
その朝は、終点のバスセンターに到着して乗客の全員が順に降車しようとしたとき、ギリギリまで椅子に座っていたくせに、到着した途端急に立ち上がって無理矢理先に降りようとした女の子がいた。せわしないなあと思ったいたのだけど、同じく降りようとしていたおばあさんにぶつかってまで降りようとしているのを見て、私はカッとなり、「危ないだろ」とその子のダウンコートのフードを思わず後ろからグイッと引っ張ってしまったのだ。
ハッとしたときはもう遅い。着脱可能なフードのパッチンボタンがプチプチッとはずれた。しまった、と手を離す私。先に手が出るとは、お前こそ全く穏やかじゃないという話だ。
反射的にフードを押さえつつも、振り返らず降りていく女の子。バスを降り、駅へ向かうターミナルの階段を上がっていた時、横のエスカレーターにフードを押さえブルーな顔で乗っている彼女の顔を見つけて申し訳なくなった。(同時に「エスカレーターに止まって乗ってるくらいだからやっぱそんな急いでなかったんじゃねえか?」とも思ったが)
ああ。ギャアギャアと叱りつけずとも、目を見つめてゆっくり首を横に振るだけで相手がハッとなるような、徳の高い人になるにはどうしたらいいのだろうか。
まずは人のフードを取ったりしちゃダメだな。

吐露終わり
吐露始め

「た」 大喝一声(たいかついっせい)その3

しかし、ものの数分も経たぬうちにまたもや誰かがゲラゲラ笑い出し、すぐさま元に戻ってしまう。さっきおじさんが「うるさい!」と言っても伝わらなかったようだったから敢えてジェスチャーにしてみたのに、あれ?アメリカでは「シー」とやらないんだっけ??一瞬本当に考えてしまった。
我慢していてもうるさくなる一方なので、今度はそこにいる高校生たちも含め、全員に再び「シー」とやってみた。偽・エディーがまたかわいこぶるのは想定の範囲内(byホリエさん)として、高校生達までもがかわいげなまなざしで「シー?」とやり返してきたのには驚いた。
なんじゃそりゃ!シー?じゃないよ。「おかあさんといっしょ」じゃあるまいし私の真似してどうするだ。私はお遊戯のお姉さんか。お前ら日本語喋れるんだから「うるさいですか」ぐらい聞き返せっつの。
二度目以降は「シー」の効果もなく、偽・エディは「シードントライクミー」の一言で済ませてしまい、高校生も一緒くたに調子づいて大声で騒ぐ迷惑な客の一員になりさがり、シーでことを済ませようと思ってた私もいよいよ頭に来て、高校生たちをとっつかまえ「わかんないの?あんたらが調子づかせてるんだよ?みっともないよあんたら」と叱りつけてしまった。さすがにシュンとなる高校生達。本当に悪いのは彼らじゃないからちょっとかわいそうだったけど、外国人たちが違うお国でちょっぴり羽目を外してみたりすることを許せたとしても、こんなセンスもなくダサアホい外国人に憧れて喜ぶ我らが日本人高校生たちは許せない。
これが本当にエディ・マーフィーに似た素敵外国人たちだったらばそうは言わないし、私も高校生たちと一緒に浮かれてしまったかも知れぬ(そもそもそんな素敵な人らはこんな電車の中で騒がないだろうが)。だけど、スラング混じりの英語を喋る人と言うだけで何が格好いいか悪いかもわからないようになってしまうのは日本人としてやっぱり恥ずかしい。
それ以降は高校生も大人しくなってそそくさと電車を降りていき、偽・エディー達は未だ騒いでいたがその効力は先ほどより大分劣ったかようだった。それ以後も様々な形でもって私と偽・エディーたちとの攻防あったがひとまずは終結、ともあれ無事に電車を降りて帰ることが出来た。

吐露終わり
吐露始め

「た」 大喝一声(たいかついっせい)その2

先日も夜の電車で若い男二人が喧嘩していたのだけど、一人が言い争いの途中で降りたので事実上降りた人は「負けた」ことになり、その後に残った一人が勝ち誇ったように友人に試合後の感想を語っていて、むしろそちらの方がむかついてしょうがなかった。
遠い場所に立っている私の方にまで聞かせるように喋るんで、余程近くまで行って「悪いけど周りがあなたを讃えてると思ってるなら大間違いだよ。そんなアホな会話を聞かされるこちらに迷惑料を払って欲しいくらいだ」と教えてやりたかったが、つまりはそう言う「空気の読めぬセンスのないバカ」が嫌いなのだ。
夕べ乗り合わせた外国人たちもまさにそれで、そしてそれを肯定しているのがこれまたモノを知らぬ日本人高校生なのがやるせなかった。
スラング混じりのアホ英語でヘラヘラ喋ってる外国人たちを見ながら、高校生たちが「エディ・マーフィーみてえ」「すげえ、映画見てるみてえ」などと言ってるのを聞いた日にゃ、やーめーてえええ!!と心で叫んでいた。
何が映画みたいだバカ!そしてどこがエディ・マーフィーなんだよ!まるで似てもないし、今時の高校生のクセしてアフリカ系アメリカ人の男性はみんなエディ・マーフィーに見えるってちょっとセンスが古すぎるだろ!それはもう、アフリカ人はみんなにサンコンかニカウさんに見えて、中国人はみんなユン・ピョウに見えて、ハワイアンはみんな小錦に見えるって言う古さだよ!そんなじゃ日本人は皆「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるサラリーマンに見られるよ!
言われた方もまんざらでもない顔で「ユーノウ、エディ・マーフィー?」だって。おバカ!似ていない!ヤサ、君は似ていナイ!!
そんな風に全部ぶちまけたい気持ちを抑え、されどそろそろ黙ってもられなくなった私は、偽・エディーと目があった折りにせめて穏便に気持ちを伝えてみようと、唇に人差し指を当て「シー」とやってみた。
子供のようなまなざしで偽・エディーも唇に指を当てシー?とやり返してくる。子供のようなまなざしとはもちろん本当に子供のようだったわけではなく、偽エディーがかわいこぶっているだけなのだが、ともかくそれで一時は静まったように見えた。

吐露終わり
吐露始め

「た」 大喝一声(たいかついっせい)その1

「注意するのも命がけ」とは悲しい時代だが、どうしてどうして、満員電車の迷惑客に怒りを静められぬ私である。
と言うわけで昨晩またやってしまった。終電間際の小田急線、お相手は数人のアメリカン・グルーピーだ。己らをヒップホップなイカした奴らとでも思ってるのだろうか、満員電車で距離感無視のバカでかい声で歌えや騒げ、苛ついた男性客が「うるさい!」と一括しても「ニホンゴワカリマセン」てな素知らぬ顔。お腹の肉をシャツからムリリとはみ出したデブちんの彼女を引き連れ、ゲラゲラ笑い、上機嫌。この電車に乗り合わせた乗客達は、一日働いて疲れ果て帰るなか、何が悲しくてこやつらのヘタッピな歌など聴かねばならぬのか。私は乗り合わせて数分であっという間にむかついた。
しかし、乗客の大半がおそらくは私と同じ気持ちだったとはいえ、全員が迷惑していたかというとそうでもなかったようだ。
何が嫌だったって、そんな風にきゃつらを調子づかせてるのは、近くに乗り合わせた日本人高校生たちなのだ。「バカガイジン」と自ら称する彼らを憧れのまなざしで見つめ、さも「外人さんと話せて嬉しい」とばかりにはしゃいでおり、それこそがあやつらに「俺らってクール」と勘違いさせ浮かれた気分を助長させているのだった。
最近わかってきたことだが、私が腹が立つ理由は大抵、騒いでること自体にじゃない。酔っぱらいの喧嘩とかなら、余程危うきものでない限りむしろ面白がってみてしまう方だ。お互いちょっと恥ずかしがりながら喧嘩している様子を見るのは、申し訳ないが暇つぶしになって、いい。
腹が立つのは、浮かれている奴らがそうやって騒ぎながら本人たち自身「俺らってイケてる」と勘違いしているということだ。
それが日本人だろうが外国人だろうが関係ない。そう言う奴らは大抵、自分たちが面白い会話をしていると思っている。なんなら、こうして浮かれ騒いでいる奴らにグッと我慢している私たち他の客に対し、そんな俺らについて来れないお前たちはダサい、くらいに思っているのだ。そこがもう、たまらなく嫌だ。

吐露終わり
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