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吐露始め 2006/09/06 水曜日

「の」 能事終わる(のうじ・おわる) ほか

「の」。いよいよやってきた。やってきてしまった。
「の」である。
「の」のあとは「は」。
つまりはあかさたな、からの折り返し地点だ。
5年もの歳月をかけ辿り着いた折り返し地点…と考えると、はあやんなっちまう。
それでもいつかは辿り着くわけで、そうなると「ん」にもいつかは辿り着くのだろう。
誰もがわかっていることだが、「ん」なんてことわざは、ない。
つまり「わ」が私たちの終着点になる。私たちって、誰を交えていってるのだか

さて、記念すべき折り返し地点突入に至る「の」のことわざを辞典で調べてみると、「の」から始まることわざは意外に少なかった。そして、少ない「の」をザザと眺めるうち、何だか「の」のことわざはどれも、恋愛にあてはまるようだ、ということがわかった。
というわけで、記念すべき折り返し地点では、「の」のことわざからこと「恋愛」について、想いを馳せてみることにする。

「能事終わる」…

なすべき仕事は総て終わった、の意(「終わる」という時は本当はもっと難しい字なのだけど、うまく変換できないのでポピュラーな「終」にしてみる)。
恋愛の終わりをどこで悟るかは、人それぞれ、いや、時それぞれだ。さよならと素直に終わることもあるのだろうし、さよならしましょうと言いながらズルズル続くこともあれば、ズルズル続いていながら既に「終わっている」ことを悟ることもある。またどちらかが一方的に終わることもあって、私の古い友人は「彼が団子を上からでなく横から食べた」だけで恋を終わらせた。マジな話。
だが恋が終わったときそれらを「能事終わる」、という言葉に置き換える人はあまりいないだろう。大抵は、未練だの情だの後味の悪さだの性的欲求だのあいつにしてやれることがもっとあったんじゃねえかだのと、なにかしらクリアしきれなかった課題を残したまま終わることが多いのだろうし、それは至極健全なことのように思える。逆に「能事終わりました」というのは、それまで散々恋人に苦労してきて、もう疲労困憊、満身創痍ですよという人が最後にポロと漏らす言葉なのかもしれない。
クリスチャン・スレーターとマリサ・トメイの映画で「忘れられない人」という作品がある。この映画、最後はとっても悲しい結末なのだけど、ラストシーンではマリサ・トメイが「私は愛しぬいた」というようなことをひとりでつぶやき、どこか清々しい顔で終わる形になっている。
「これまで、仕事もなにひとつ続かなかった私が、あなたへの思いは貫き通した」みたいなことを言うのだ。それこそまさに、能事終わる、な感じなのだ。
私はこれを観て「ええー?待てよ」と思った。なんつうか、肘がカクンと机からこぼれ落ちた気分。それ言うの、あと三日くらいたってからにしねえ?みたいな。
それで正直なところ、私のこの映画の評価はガクンと落ちたわけだけど、「愛しぬいた」という言葉があるように、「能事終わる」ことだって、あるのかもしれん。
私は今のところ「能事終わった」経験がなくて、だから少しだけ、惹かれる。

「残り物に福がある」…

私は昔からこのことわざがわりと好きな、やらしい子供であった。例えば席替えの時、好きな男の子と一緒になりたいが、がっついてクジを引くよりも「残り物」に幸運が潜んでいると思い込むタチであったし、またクラスメイトの大部分が好きだという男の子のことは好きにならず、ちょっと背の低い子とか、あか抜けない野球部員なんかにひっそり目をつけるタチであった。あか抜けない野球部員を「残り物」と称するのは大変失礼であるが、ともかく「売れ筋」を避けたという意味でご理解されたし。私は一度も行ったことがない憧れの「合コン」、きっと自分が出向いていたならば、またこのことわざの法則に従っていたかも知れないな、と思う。それは競争心がないのではなく、のろのろやってても幸運よ降ってこいという、他力本願な思考なのかもしれない。
ただ、その考え方は歳を取る事に変わってきたと思う。30代に突入した現在、よく友人たちと話すのは、「この歳で出会ういい男はだいたい、彼女モチか妻帯者。残り物に福はなし。」ということである。略奪するか恋人と別れた直後に出会うという幸運さにかけるか、なんだか年々、狭き門になってるわよねえ、なんてしみじみ話す自分たちこそが「残り物」なんじゃないかということには、たいてい気づいていないのだが。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」…

長い付き合いである女友達・A子の好みは、大体わかる。切れ長の目がどこか冷たげで、性格はつかみどころがなく、ふわふわと謎めいている男。A子の好みはこの10年ずっと変わっていない。
でもさあ、手を出せば痛い目に遭うってわかってんの、ああいうタイプの男は。
A子は言う。喉元過ぎれば熱さも…とはいうが、散々やけどしてきたら、やはり体が構えてしまうものらしい。それでも、だからといって好みが変わるわけではなく、また別の場所へでかければA子は似たタイプを追ってしまうようだ。結局は「やけどをするな」とわかっていても、その「熱さ=痛み」そのものは忘れてしまうのかもしれない。いや、痛みを忘れるというよりか、同時にある「熱さ=快感とか恍惚」みたいなものの方を、忘れられないのかも知れない。

「乗りかかった船」…

ウブい話だが、高校三年生の時、初めて男の子と「ちゃんと」手をつないだ。
フォークダンスでつなぐとか、飲み屋で酔っぱらった大学生とつなぐとかそういうのではなく、ハッキリと互いを意識して、求め合いつないだのはそれが初めてである。
駅から私のうちまでの道のりを、二人で歩いていたときだった。まだ私たちは、正式なお付き合いの約束などしていない。ただ一緒に帰っただけだ。
狭い道を通ったとき、私たちの手の甲は何度かぶつかった。振り子のように揺れる互いの手が、シュ、シュと擦れるように何度かぶつかって、その何度かめでスイッと彼に手を掴まれたのだ。
体がこわばり、一瞬にして体中から汗がふきでた。季節は夏だったし、私は汗っかきだが、手のひらにかくことはほとんどない。それなのに、体中の「全・汗」が、その時は手の平に集中したような感じがした。
汗をかいてると思われたくなくて、すぐに離したくなった。同時に、何があっても離したくない!という気持ちに駆られた。激しい葛藤のすえ、わたしは汗をかきながら、最後まで手を離さなかった。
あの時私は、まさに「乗りかかった船」であった。

「暖簾に腕押し」…

先ほどのA子ではないが、私もかつて「クールな男」なるものに憧れたクチであった。
ねえ今何考えてるの?知らんぷりして、私、あなたのことがサッパリわからない!…そんな片思いに没入した時期があった。
ツーと言えばカー、鑿と言えば鎚(ここにも「の」のことわざが!)という関係に憧れるのはそれからまだ大分先のことで、「なにを言ってもポーカーフェイス、アプローチしても暖簾に腕押し、ううんいけずう」な、男のコに惹かれたのだ。
……小学生の、ころである。
今思えば小学生後半~中学生にかけての男子なんて、大抵がシャイでガキんちょで女のコが何か言っても「あぁ」とか「まぁ」とか「ふぁー」とか気のない返事しか返せない「暖簾に腕押し野郎」がほとんどなはずで、それを「クールでポーカーフェイス」と言うことにしていた女子たちを思うと、何だかいじらしい。
そんな「暖簾に腕押し野郎」を対象にしたとき、女の思考が年とともにどのように変わっていくかを考えてみた。
「クールでポーカーフェイス!」(小学生)→「シャイなのかな☆」(中学生)→「不器用なひとネ」(高校生)→「ちょっとめんどくさい奴」(20歳過ぎ)→「うぜえ!」(30代)
…だいぶ乱暴な考察かしらん?

吐露終わり
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