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吐露始め 2006/08/15 火曜日

「ね」 猫の手も借りたい(ねこのても・かりたい) 

「猫の手も借りたい」とは、猫の手だろうが猿の手だろうが孫の手だろうがもう何でも良いから貸してくれいってほどに忙しい状況のこと。
お盆。私はまさにそんな「猫の手も借りたい」状況である福島の田舎、祖父の新盆に、孫の手として猫以下の働きぶりでお手伝いをしてきた。

祖父が亡くなってから初めての帰省だった。
私の実家は東京なので正確には田舎ではないのだけど、幼い頃から冬・春・夏休みのほとんどを過ごしてきた母方の田舎、福島の鮫川村は私にとってやはり、田舎である。なのでここでは「帰省」と書く。
祖父のお葬式は稽古で出席することが出来なかった。藁を燃やして祖父の魂を迎え、仏壇の前で私は遺影になった祖父と久しぶりに再会をした。仏壇の祖父は若かった。親戚たちは皆明るく、気丈であり、母は仏壇の前で泣いている私を「ユウコさんがおじいちゃんとお話ししてるワ」などとからかった。私もそこで泣くのはやめ、久しぶりの我が家へ帰ってきた気持ちでくつろいだ。
祖母は「オメ、しばらくぶりにおっきくなって」と言う。去年も来たじゃんと私が言うと、「いやあ、オメのこた、ちっちぇえ時しか憶えでね」と祖母は返した。これは祖母のいつもの冗談である。いつもの冗談だけど、お葬式に帰って来れなかった自分を、少し悔いた。

福島の夏は涼しい。程良く草の香りをはらんだ風が縁側から入り込み、遠くでヒグラシの啼く声が、私をゆっくりと福島の子に帰していく。

幼少時代、「ちびまる子ちゃん」を初めて読んだ年上のいとこが「この漫画、ユウコがいるよ!」と思わず叫んだほどに、私はまる子のような子供であった。怠け者でお調子者、ちゃらんぽらんでスットコドッコイ、と書けば漫画家・さくらももこさんに申し訳ないのだが、祖母曰く「デレスケガキ」な私は、まあまさしくそんなまる子的子供であった。男の子で言えば、「カツオがいる」と言うことになるのだろうし、若干、と言うかかなり夢見がちな子供でもあった私は少し前までは「トットちゃん」に例えられていたものだが、その性格だけでなく、私がまる子にシンパシーを感じる理由のひとつは、祖父である。
祖父の名は、友蔵だ。

さて、新盆は大イベントである。
この村では新盆は第二のお葬式であり、早朝お坊さんの来訪に始まり、朝から夕方にかけてご近所さんから親戚の方々、村長さんに至るまでが続々と焼香に訪れる。
家ではビールやお茶、お刺身や天麩羅、うどんなどの軽食、そしておみやげを用意し、お客様を迎えるのだ。
この日、村の人たちは朝から大忙し。6,7件の家を回るのなんて当たり前なので、朝もはよから皆さん喪服姿で村中を駆け回る。朝いらした村長さんは「今年は62件回ります」なんてニコニコと仰っていた。それはそれは、お盆は忙しいものなのだ。
私の仕事はと言うと、そんな風に続々とやって来るお客様の靴を揃え、居間へご案内し、帰りには一人一人紙袋に入ったおみやげを渡すという役目。時折お茶をついだり、お刺身を運んだりなんかもするが、これらはお客様と顔見知りである母や叔母たちがほとんど行う(なんつって、ほんとのところ単に私は台所でまるっきし役立たずなのだ)。伯父と父、そして祖母はお客様を座敷にお迎えしてご挨拶するいわば接待係である。
早朝7時に起床し、8時にはお客さんがやってきた。ほとんど間をおかず、100人を超える喪服のおじ様おばさま方が訪れた。時に、「アレ裕子ちゃんが?おっぎぐなっで」などと声をかけてくれる人も居たりするが、私は誰のことも憶えていなかった。
何件も回るためお茶も飲まずにお帰り遊ばす方も多く、そんな時は冷蔵庫からお刺身を出しては下げ、出しては下げ、の繰り返し。お昼頃から徐々に休憩して行かれるお客様も増え、慌ただしいなかで母や叔母、私たち女は台所でうどんを立ち食いした。
私は帰るお客さんにおみやげを渡し、足りなくなればまた袋に詰め、靴べらを渡したりしまったりし、そんなことが夕方近くまで続いた。

お客さんが一区切りしたあたりで私は少し昼寝をした。本当なら一番忙しくしていなければならない若い衆にはあるまじきことだが、甘えさせてもらう。
窓を開け放ち、いとこが置いていった本棚の膨大な漫画をチョコチョコ読みながらうたた寝。下で親戚たちの笑い声が響いていた。
いとこの中でも一番末っ子の私は、昔からいつもこうして一足先に居間を出て自分の布団がある部屋へ行き、賑やかな声を遠くに聞きながら過ごしていた。祖父はいつもニコニコしながら無口な人だったし、私と同じく先に自分の部屋へ帰って過ごす人だったから、目をつむって耳を澄ましても、そこに祖父の声がないことを感じるのは難しい。
だからそこに祖父がいると、感じてみることも出来るような気がした。

目が覚めた頃には新盆の大イベントは一段落、夕方が近づいていた。
福島の夜は早い。伯父は毎晩夜の8時に寝るので、日が暮れて夕ご飯を食べたらもう寝る時間なのだ。短い夜の夕食を、皆で食べた。お客様に用意していた天麩羅やうどんの残りは冷えても美味かった。うちの親戚イチ個性の強い叔母がハイテンショントークで相変わらず食卓を盛り上げ、私たちは大笑いした。
私と父はこの日の深夜には東京へ帰る。なのでもうじき就寝する伯父にお休みとまたねを告げた。

祖母の部屋に行き、体を揉んだ。これは私と祖母の恒例である。手が疲れるので子供の頃はめんどくさいと思ったこともあったが、今はこれをしないと落ち着かない。またお互いに憎まれ口をたたき合う祖母との会話も、毎度なくてはならないものなのだ。
足を揉みながら、今回帰省して初めて一緒に祖父の話をした。おじいちゃんは幸せだったねと、話した。孫の私が勝手に幸せだった、などと断言するのもなんだけど、祖母も「んだんだ」と同意した。
奥の部屋には、ベッドが二つ、並んでいる。ひとつは祖母のベッド、もうひとつは祖父のベッド、祖父のベッドはもう、シーツが敷かれていない。
私は最初ベッドを見たとき「この際だからダブルベッドにしたら」と、提案してみようかと思っていた。しかし祖母は、そんな考えを知っていたかのように、不意にベッドの話しを始めて「なんだかとっちまうのもさびしくてなあ」と言った。
「夜中にふっと目が覚めるんだ。そうすっど何だかおじいちゃんがいるんじゃないかって横見てしまうんだよなあ」
私は、ダブルベッドの提案をしなくてよかったと思った。そんな提案をしようと思った自分を、少し悔いた。
「なんだ夫婦ってもんは、不思議なもんだない」
どうにも涙が出てきて、私は泣きながら足を揉んだ。祖母に泣いていることを悟られないように揉んだ。
こんな時でも照れくさいものなんだなあと、思った。

哀しい日であるはずの新盆は、哀しいが猫の手も借りたいほどに忙しく、楽しかった。
哀しいことを忘れるほどに、優しく、明るく、心地よかった。
祖父がそれをくれたことを私は知っている。

吐露終わり
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