2009/04/20 月曜日
翌日の深夜、夜間の動物病院へ駆け込んだ。
稽古から帰ってきたら、シーはいつもより元気に見えた。
目がパッチリと開き、首を動かして辺りを見回す。
動きが活発になるのはインスリンが効いている証拠で、調子がいいときは相変わらず私の膝に乗ろうとする。この夜も最初はそんな感じがしたから、ああやっぱり少しずつ体力が復活しているのだと思っていた。
だけど、夜が更けて行くに連れ、どうも様子がおかしいことに気がついた。
目が開きすぎている気がする。もともとシーは目が大きく、バチッと丸く開いていて、普段からビックリしたような顔をしている。最初にもらってきたときは手塚治虫のマンガに出てきそうな目の美猫だなあと思ったから、そうして目が開いているのは通常かと思われたが、それにしてもどこか爛々としている感じがあった。それで、しきりに首を動かしどこかにいきたそうなのに、下半身が思うように動かず、もどかしそうにしている。
このところシーはトイレに行くのもおっくうなのかよくお漏らしをしてしまっていたので、ペット用の紙オムツをしていたのだが、やはりその夜も点滴で水分を入れているから大量におしっこをしたのだけど、動きたがってる上半身に対し、下半身に力が入っていない。
コレは変だぞと思って心配していると、恋人がネットで調べ、低血糖の症状に似ているという。
ひとまず、ネットにあったとおり家にあった蜂蜜をスポイトで飲ませると、少し落ち着いたように見えた。
更に、夜間専用で診察を受け付けている地元の動物病院に電話相談してみたところ、低血糖ならば沸騰させて気の抜けたコーラをさまし、それを飲ませるようにと言われた。
コーラには即効性があるらしい。ちなみに、ペプシではダメで、コカコーラにするようにとのことだった。
すぐに恋人がコーラを買ってきて準備した。
夜間病院の医師には、出来れば病院に連れてきた方がいいけれどと言われたが、またしても別の病院に行くことに抵抗があった。ちょっと心配になったからと言ってすぐに病院に駆け込んでてはシーもくたびれるのではないかという想いもあったし、夜間は診察料も多くかかる。
それに以前、まだシーが小さい頃にも急に吐き気をもよおして、当時済んでいた場所の近くにある夜間病院に駆け込んだことがあったのだが、その時は信用できない怪しい獣医師に当たってしまった経験があったため、同じ鉄は踏みたくないと言う想いもあった。
それでもシーの今の様子は気にかかる。
M先生にあの「あと数日もつか」の診断をされてから、このごろちょっとした変化にも動揺していた私は、一人では判断できず、おろおろしていた。
恋人は、俺は大丈夫だと思うけど、私が心配なら行ったほうがいいと言った。
私は、行かない、と一度は決め、すぐにやっぱり行くと言い、その後また躊躇した。
その様子を見て、もう行こう、行った方がいいと彼に後押しされ、結局コーラを飲ませるのはひとまず置いて、病院へ向かった。
夜間動物病院は、M病院よりも建物が古く雑多な雰囲気があり、受付に立つ女性助手も、美人揃いのM病院に比べなんだか微妙に歪んだ顔をしていたので、私は以前行った夜間病院を思い出し、不安になった。
夜間病院の獣医師K先生は、髪の毛にふけが溜まり、常に半笑いで話す先生だった。
これで更に不安になるところだが、M先生には散々不安を煽られるようなことばかり言われていたので、さほど動揺することもなくてきぱきと対応するそのK医師の様子に、私は少し安堵した。
またこれまで、私がM先生と話をするときは、早口で大量の情報を繰り返し言われ、もはや頷くのみという状況に慣れていただけに、今回も、途中で口を挟まれることを恐れて急いで出来る限り詳しく状況を説明したが、K先生は私の話を中断せず、全て聞いてくれた。
検査の結果、やはり低血糖ですねと言われてその場でブドウ糖の点滴を打ってもらった。
計ってもらったところ、シーの血糖値は20しかなかった。
色々調べたところによれば、高血糖も危険だが、インスリンが効きすぎて低血糖になるのも危険だという。場合によっては命を落とすこともあるらしく、むしろ低血糖の方が高血糖以上に危険である、と言う意見も多い。
二本の点滴と注射の後、K先生が「ウン、コレでだいぶ良くなったんじゃないかな」と言ってシーの首元をキュッと掴んで顔を起こすと、シーは今目覚めたようなような顔で首を上げ、久しぶりにウニャンと声を出した。
その瞬間、私は泣き出したくなった。横にいた恋人も「良かったあ」と言って大きく震える息を吐き、私たちは互いにがっちりと手を掴んで安堵した。
猫のたったひと泣きが、どれほど安心感を与えるか。それは信じられないほど大きなものである。
しかし、気にかかることはまだあった。
その始めは、夜間病院に到着した際、K医師からどんなインスリンをどの程度打っているかと質問されたときだった。
私たちはなにも知らなかった。恥じ入るようにわかりませんと答えた。
その時になって初めて、私たちは、そういうことを病院に聞いてもいいのだと知った。
ネットで調べる猫ちゃんの闘病記の多くは、飼い主さんがかなり詳しく病状を記載している。
インスリンが即効性なのかどうかや、その量についても詳細に記述している方もいる。その方たちはおそらく、ご自宅で自分自身の手でインスリン投与しているから知っているのだと私は思っていた。M先生に聞こうとはしていなかった。
というか、何かを聞けばM先生に深刻だと言われてしまうから、今はまだ聞いてどうなる時期ではないのだと、変な言い方だが、聞いていいレベルに私たちは達してないのだと、私も恋人も理解していた。
いつも聞かされるのは朝と夜二回の血糖値だけ。
合間も何度かインスリンをうち血糖値を計ってますと言われていたのだが、その詳細よりも、料金は二回分しか頂きませんから、と言うようなことばかりM先生に言われる、と以前恋人が漏らしていた。
だけど考えてみれば、こうした事態に備えて詳しく聞いて良かったのだ。というか、それは常識だったのかもしれない。
ここでまた、私はM医師に不信を感じるようになる。
その不信感が更に高まったのは、K医師から血液検査の結果を聞いたときだった。
私たちの言葉だけでは情報が少なすぎたので、K先生は血糖値の対処しつつ、その合間に血液検査をした。
すると、思いがけないことを言われた。
「とにかくひどい貧血ですね。これじゃご飯食べられないでしょ」
貧血?
寝耳に水だった。M病院から貧血について聞かされたことは全くなかった。
ご飯が食べられないのは、胃が弱っているからで、胃が気持ち悪くて、食べられないと聞いていた。
もちろん、じゃあ胃が治れば良いんですね?と言う聞き方をすれば、そういう問題じゃない、とにかくあちこち悪くなっていくから事態は深刻だと言われてしまうわけで、とにかく今は、胃を薬を入れた点滴で徐々に回復させるしかないし、奇跡を待つように、胃の回復をひたすら待ち続けるしかないと思っていた。
ところが、K先生には、胃だけではなくて貧血が食欲を減退させているから、個人的には輸血を薦めますけどねと言われた。輸血とは、私にとって全く新しい治療法だった。
K先生は他にも、足が動かないのはカリウムが不足しているからだということや、他の状態はこうなってますと言うことを検査結果の紙を私たちの前に見せて一つ一つ説明してくれた。血液に遠心分離をかけ、その血を見せてもらいながら、黄疸についても説明を受けた。
ひとつひとつ、細かいデータを元に説明を受け、初めてなるほどと思ったことがいくつもあった。おそるおそる、今まで怖くて聞けなかった質問などもしてみたが、そのたびにはっきりとした回答をしてくれた。病院へ毎日連れて行く意外、もうできることはないのかと思っていたから、少しでも出来ることが見つかったような、どこに向かうべきかという目標が少しだけ見えた気がして、私の気持ちは少し明るくなった。
K先生にはもうひとつ、その貧血の度合いなどを見て、これは通常の糖尿病とはちょっと違う気がする、と言われた。
私は腫瘍のことについてはもう話していたから、その影響もあるのかなと思った。
検査に手間がかかる腎臓についてはこの日のうちに調べることは出来ないから、この前腫瘍の再検査で調べたとき、腎臓はどうでしたかと聞かれたが、私ははっきりと答えられなかった。
そういえば再検査の結果を、詳しく聞かされていなかったのだ。転移は見つからなかったと聞いて安心したのもあるし、なにより糖尿病が見つかった時点で、そちらの方に治療がシフトしていたからだ。
特別に聞かされていない時点で、私は基本的には健康で糖尿病だけが問題なのだと思っていたし、何度も書くように、今となってはあちこち悪いというような形で聞かされることが多かったので、改めて着目すべきことだと思っていなかった。
K先生には、カリウム不足を点滴で補って欲しいことや、輸血の案も含めて診断書を書き、M先生にコレを見せるようにと手渡された。
その日は結局、体調の戻ったシーを抱いていそいそと帰ったが、私は転院することを真剣に考えていた。
家に帰ってシーは、ヨロヨロとではあるが、歩けるようになっていた。
膝に抱いていたが、ソファの方が居心地がいいかと思い寝かせてみると、自分から降りてきてまた私の膝に乗った。